映画感想文『サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~』

《推定睡眠時間:0分》

これAmazonスタジオ配給の映画なので劇場公開に先駆けてAmazonプライムビデオで配信がされてたんですが突発性難聴に襲われた主人公の体験する音世界を再現するっていうのが作品の特徴なので音響に拘っててやっぱそういう映画は映画館で観たいしな~独自のサウンドシステム組んだ音の良い劇場とかでかかるっぽいしな~ってことで配信鑑賞を我慢して映画館で観てきて、それでじゃあ配信で観たらどう感じ方が変わるかって思ってさっきアマプラでヘッドフォン着けて観てみたんですけど、これは鑑賞の際にどこを重視するかの違いなのだが配信もそう間違いではないっていうか、作品に浸るっていう意味だったら配信で観た方がむしろいいんじゃないかとか思った。

メタルっていうぐらいで主人公はブラックメタルみたいのやってるバンドのドラマーでドンドコドラムを鳴らす人、そういう設定なんで冒頭のライブシーンとかは映画館で観ると超迫力があるしノイジーな環境音が刺すように主人公の音世界に入り込むシーンの不快と恐怖もやはり映画館で浴びた方がでかかった。でも当然といえば当然なのかもしれないですけど、音の配置のバランスが良くて作品の音を隅々までちゃんと聴けたのはヘッドフォンの配信鑑賞だったんだよな。

これは結構パーソナルな物語の映画で突発性難聴で世界に居場所を失った主人公が音の壊れた世界で自分の居場所を見出すまでがドキュメンタリータッチで描かれるわけですけど、その旅路が映画館で観るとノイズと静寂が劇的な対比を成すよう調整された音響(映画館にもよるが)のおかげですごいドラマティックにみえて、一方ヘッドフォンで観るとそうじゃなくて全体として静かでドラマティックな盛り上がりのないつつましい映画体験になって、どちらがこの作品に合っているかといえば俺には後者に思えた。っていうかそういう風に作られてるんじゃないかと思った。

一応言っときますけど俺はこのブログにAmazonのアフィリエイトリンクを入れてるからそう言ってるわけじゃないですからね。みなさんがこのブログを読んだ後にAmazonでお買い物などをすると俺の方に一個10円とかの仲介手数料が入りそうだな2021年時点で月だいたい900円ぐらいAmazonさんがぼくにお小遣いのAmazonギフト券くれます。なんぼなんでも900円のために魂売らんわってみなさんも思うでしょうし俺は900円のAmazonギフト券を毎月仮想的に握りしめながらみなさんの900倍そう思ってますのでつまりそういうことですよ! だからもうあれだよ両方観ろ! 配信だけとか映画館だけとかじゃなくてどっちかでまず一回観てそれから観てない方でもう一回観れば受ける印象たぶんだいぶ違いますから面白いんじゃないですかね!

で映画に話を戻すと印象的だったのはこのドラマーの主人公はライブを全然楽しそうにやらなくてバンドのドラマーなんてそんなもんだろっていう気もしなくはないですけどどうも、この主人公はそんなに音楽に執着がない。音楽やってる人が突発性難聴とかになったらいや音聴けねぇじゃんっていうことにめちゃくちゃ狼狽しそうですけどこの人はそれよりもバンドのボーカルで恋人の女の人との関係破綻を恐れていて、キュー出してくれればタイミングは合わせられるからっつってほぼほぼ聴こえないのに無理やりツアーを続行しようとするのも恋人と一緒にいたいからっぽい、音楽っていうのはこの人にとって恋人と自分を繋ぐ絆以上のものではないっぽいんですよね。

だから音楽映画のようで音楽映画じゃないっていうか、作品の主題はそこにはなくて、音を失ったことで恋人と離れてろう者コミュニティに入ることになった主人公が今まで身を置いていたバンドの世界や都会の音環境の暴力性に気付くっていう、その意味では逆に音楽批判映画でさえあったりする。一見というか一聴すると世界は音を中心に回っているかのようだけれども、果たしてそうだろうかっていう問題提起が疑似的な難聴体験を通して観客になされるわけです。

音と言葉に頼った人間関係ってそんなにいいもんなんですかねみたいな。音楽は主人公にとってそれを失ってしまうと恋人も失ってしまうものとして強迫的に立ち現れますけど、恋人にとってもそんなに楽しいものじゃなくむしろストレス源だったっぽいっていうのがこの人がツアー中に無意識的に腕を引っ掻いてリスカ痕みたいのを大量に作っちゃうことからわかる。でバンドを離れるともう引っ掻くことはなくなるわけです(マチュー・アマルリックが演じる恋人の父親のシャンソン歌手が妻や娘を束縛するために音楽を利用することは示唆的である)

ヘッドフォン着けて配信で観た方が浸れるんじゃないかなぁっていうのはそういう映画だからで、なんていうかプロテスタント的な禁欲主義が物語の根底にはあって、他人を求めないことの美徳とか、ノイズにあふれた世界からの自己の救出とか、狭いサークルの中での平凡なコミュニケーションとそれを維持するための日々の労働に身をささげる生き方を肯定的に描き出そうとする点で、かなり宗教映画っぽい精神性を帯びている。観客に映画と一対一で向き合ってもらって音を聴くというよりも世界の静寂を直に感じてほしいみたいな、なんかそういうところがこの映画にはあるように俺には思えたわけですよ。

で、とはいえなんですけど、このノイズを映画館の大音響で浴びるのは気持ちがいいし音楽はたのしい。プロテスタント的な静かな生き方もそれはそれで素晴らしいものかもしれないですけどやっぱ変化がなくて退屈だよね、いいじゃないですかノイズまみれの汚くうるさくでも毎日新しいことに遭遇できる落ち着きのない人生で、とか思ってしまうし、この主人公もノイズ世界と静寂世界の間でグラッグラ心が揺れるんですけど、その揺れは映画館で観た方が迫ってくるものがある。

もうこれぐらいでいいですか配信鑑賞と映画館鑑賞をどっちも立てる作業は。いいよ別に誰も頼んでないしそんなの…まともかく、そういう意味では映画館と配信サイトの両方で公開されてよかったなとか思いましたよ。音のない世界に居場所を見出した主人公の表情はどこか暗い。新しい居場所の獲得は古い居場所の喪失を意味するからだが、でもそうだとするなら古い居場所への回帰は新しい居場所の放棄でもあるはずで、どちらに行っても結局どちらかは失ってしまって両方は手にすることができない。その二つの相容れない世界を観客は映画館と配信でそれぞれ体験するが、世界の変化を受け入れることで得られる心の安らぎと、それと表裏一体になった喪失の痛みを、時折浮かべる痙攣的な笑いと眼差しだけで表現するリズ・アーメッドの名演は映画館でも配信でも変わることがない、ということは二つの世界の違いを意識してはじめて明らかになるのである。

※ところで俺は思うのだが突発性難聴もそれは大変ではあろうがなにも閉鎖的なコミュニティだけが居場所ではないだろうし音が聞こえなくてもテキスト優位のネット空間なら少なくとも現実世界よりは圧倒的に制約なく自由気ままに行動できるはずである。音がゲームシステムに組み込まれたゲームは別としても音が装飾程度の意味しか持たないゲームなら耳が聞こえなくなっても超遊べるし、小説とかはそもそも音がないわけだから聞こえるとか聞こえないとか関係ない。世の中には耳が聞こえなくなっても遊べるたのしいものはたくさんあるはずなのに、この映画だけ見ればまるでナマの人間同士のコミュニケーションが世界のすべてのように見えてくる。主人公をあれかこれかの二者択一に閉じ込めるものは実は病気ではなく、そうした身体コミュニケーションに仮想的なコミュニケーションや種々の一人遊びよりも価値を置く、肉体優位の世の中なんじゃないだろうか。

【ママー!これ買ってー!】


2X4

とにかく音楽を楽しそうにやらない主人公だがノイバウテンのTシャツを着てるシーンがあったからノイズとか好きではあると思うんだよな。昔ハマってて今はぶっちゃけ興味ないけどとりあえずその時に買ったTシャツは残ってるから着てるとかかもしれませんけど。キャンピングカー暮らしだし。

↓所詮アフィリエイターだから配信リンクも貼るんだよ!


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サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~〔吹き替え版〕[Amazonビデオ]

※アマプラではよくあることだがこれも吹き替え版のみアマプラ無料で字幕版は有料になっている(2021年10月現在)

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