《推定睡眠時間:20分》
エンドロールのない映画だ! 1950年代とかならまだしも現代の映画でエンドロールがないとかだいぶ攻めた姿勢だが、オープニング・クレジットでスタッフ・キャストはおそらく全員分出るので、考えてみればオープニングにクレジットを付けるしエンディングにもクレジットを付けるハリウッド映画とかの方が変なのかもしれない。
エンドロールの代わりにオープニングでクレジットを見せるので少人数制作の低予算映画とはいえこのオープニングが長い。不快なドローンサウンドが流れる中クレジットが表示され、その合間合間に赤く染まった逆さまの都市やなんらかの構造体、変形していく身体などのCGアートがイメージ映像的に挿入されるこのオープニング、まったく新しいJホラーだみたいな感じの宣伝文句のみを見て劇場に入ったが、たしかに日本のホラー映画ではあまり見たことのないものであった。海外のホラー映画ならリブート版『キャンディマン』のタイトルバックが似た趣向。
さて主人公はデリヘル嬢。どうやら過去に子どもを失ったらしいことが映像で語られるのだが明示はされず具体的なことはわからない。この人の同僚がある日の仕事帰りにとつぜん発狂して通り魔化、その後いろんなところに放火したりなんかと凶悪テロリストに進化してしまう。いったい同僚になにが。たしかに前に話したときいるはずのないお父さんの話を楽しそうにしていたからやや常軌を逸した精神状態だったのかもしれないが…とそんな折、その同僚が最後に訪問したお宅に主人公も呼ばれる。
このお宅が異様である。とても人が住んでいるとは思えない無機質な室内を赤黒い血のような照明で染め上げ、壁にはでっかい蛾の絵だか写真だかが一枚、そしてこの怪異部屋の主であるところの謎の男の要求はエロ行為ではなく腕とか足とか体の各部位を毎回少しずつ写真に撮らせてくれというものであった。そういうフェチなのかもしれないがそうだとしたら事前にそれが可能か店員に尋ねるべきだし、それにもう少し場所を選んで欲しいものである。仮にこんな客部屋があったら実際のデリヘル嬢は「いやこういうのはちょっと」と一旦プレイを保留し店に連絡するだろう。そもそもデリヘル嬢を自宅に呼ぶということ自体、今の時代は非常識。嬢の立場を考えきちんとお風呂があり清潔なベッドやタオルなどが揃っているホテルやレンタルルームを客側は利用すべきである。
それから主人公の崩壊が始まる。たしかにあったはずの過去がなんだか本当は存在しなかったように感じられる一方、今生きている現実も本当の現実のようには感じられなくなってしまうのだ。いったいあの赤い部屋の男は主人公に何をしたのだろう? いったい目の前に広がるこの世界とは何なのか。現実と虚構の境目は不気味に揺らぎ、それと共に秩序や善悪もどろりと溶けて形を成さなくなっていくのであった…。
なるほどたしかにこれはまったく新しいJホラーと言えるかどうかはともかくかなりの野心作には違いない。精神的にキモかった! そしてキモチヨカッタ…。不気味で不快なサウンドデザイン、あえて観客を混乱させるような省略を多用した編集、インスタレーション的な照明、何か重大なことが起こってるはずなのに何も起こっていないかのように進行するシナリオ、それに例のCGアートである。演技は稚拙だしリアリティをあえて排除したプロダクション・デザインは、謎の男の家はともかくデリヘル待合部屋(あんな待遇の悪い待合部屋があるわけないだろ)の場合は失笑を生んで逆効果になっているような気がするが、薄気味悪さと心地よさがない交ぜになった稀にみる奇妙な気分が味わえるのだからそんなことはいいよな。あの海岸のシーンとか実に絵になっているではないですか!
ただしこれはぶっちゃけ黒沢清の『CURE』である。『CURE』とか『回路』。そうね、最近Jホラー作る人みんな黒沢清好きだからね…そりゃわかるし俺も黒沢清は好きだけれども、こうも直球に作品のコアが黒沢清だともう少しオリジナリティとかがあってもよいのではないですかとやはり思うじゃないですかそれは。とくにこれはほらサウンドデザインとかCGアートは黒沢清とか他のJホラーにはないオリジナルなところだったので。最初はそこから始まってこれはなんだかとても異様な映画だとドキドキさせておいて最終的に黒沢清だとなんだお前もか…ってなるもんな。
かつて黒沢清は『映画はおそろしい』と書いたが、若い世代の映画監督を意図せずして自分のコピーにしてしまう黒沢清こそがホントはおそろしいのかもしれない。まとはいえ映像表現や音響演出はかなりイイ感じなのでなんかコワイ映画とか尖った映画とかを観たい人にはオススメしたい作品ではありますなこれは。頭ぐにょにょ~んてなる。