↓予告編
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声とか音楽以外の作業をほとんど全部自分一人でやってしまうので二時間の映画一本作るのに短くても5年ぐらいかかるという日本アングラアニメ界の巨人・原田浩が制作開始から数えれば33年かけて作った執念というよりも怨念の塊と言うに相応しい最新作『座敷牢』はものすごい映画体験であったのだがものすごい映画体験だったので感想をというならばとりあえず観てくれまぁエログロに抵抗がなければぐらいしか言えない感じもあるのだがアングラアニメゆえ一般劇場ではまず上映機会がなくその状態で観ろと言われてもかもしれないのでまぁ少しだけあくまでも具体的な内容にはほとんど触れずに書くか。
一言で言えば暗黒アニメ界の『もののけ姫』。なんだかんだその後も宮崎駿は作品を結構コンスタントに作ったとはいえ公開時点では『もののけ姫』が宮崎駿の集大成、『もののけ姫』を機に作風や関心対象が変わったようにも見えるので集大成とまで言わないとしても映画監督としてのターニングポイントとなったのは間違いがないと思うが、原田浩のフィルモグラフィーに引きつけて言えば『二度と目覚めぬ子守唄』の主人公と『ホライズンブルー』の主人公が『少女椿』の世界で出会ったような『座敷牢』は『もののけ姫』がそうであったように原田浩の集大成ないしターニングポイントになるんじゃないだろうか。
とにかくすさまじい世界に対する憎悪。自分は世界から望まれていないというネガティブな感情がここまでストレートに表出する映画がかつてあっただろうかいやあったかそれが『二度と目覚めぬ子守唄』だったわけだが、集大成かもしれないというのはやはり人間長く生きてるとそれなりに得るものはあるんだろうな、『二度と目覚めぬ子守唄』がひたすらネガティブに下降して大暗室の如し自己の脳髄の地獄(夢野久作)に自閉する映画だったとすれば、『座敷牢』は脳髄の地獄を突き抜けて生の肯定と世界の発見へと至るんである。だからすさまじくネガティブなのに観たあとはよし俺も生きようという気分になる。
おそらくこうした態度変更は33年の制作期間中に勃発した様々な戦争と無縁ではないだろう。実際劇中にもシリア戦争やガザ侵攻の報道写真などが引用されるし、エンドロールやチラシの欄外には「Stop The Genocide,NO WAR」と書かれているが、ただ生きたいだけなのだが紛争の影響で食うものも満足に与えられず餓死者続出という状況に置かれた人が先日の報道によれば国連の調査チームがジェノサイドと認定したガザに限らず世界中にわりと存在する中でネガティブばかりを発露することは原田浩のようなタイプのアーティストにとって虚しく感じられることだったんじゃないだろうか。世界の残酷をまじまじと見つめながらそこにある微かな光を決して見逃さないこと。幸運なことに今この瞬間にも予兆なき空爆で建物もろとも粉砕される不安がなく明日食うものにもとくに困っていないという状況にあるならば、その人はそんな状況にある人のためにこそ、無理をしてでも光を見つける道徳的義務があるのかもしれない。
と書けば非常に真面目な文芸映画のように思われるかもしれないのだが、原田浩本人は至って真面目に制作していると思われるにしても、1990年代の古のPCエロゲを彷彿とさせずにはいられないえらく俗っぽい(そして下衆な)シーンは少なくなく、原田浩アニメ名物ともいえる超ステロタイプのいじめっ子描写やカップル全員死ね怨念のスパークするカップル惨殺など、社会派映画と聞いて人が思い浮かべるものの中には確実に含まれていない要素はあまりに多い。
でもそれでいいんである。これは原田浩一人の脳汁のみで描かれた絵巻。イチャついてるカップルがムカつくという怨念と戦争被害に対する悲嘆とこんなシチュエーションで女の人とエロいことしてみたい的な欲望がまったく等価のまま同じ作品の上に取捨選択されず並んでしまい、明確な家父長制批判(批判というか憎悪)が描かれる一方でほとんど説明もなくミソジニーとしか言いようのない血まみれ女殺しシーン集が入り込んでくる矛盾こそがこの映画と原田浩の本気っぷりを示すものだ。どちらか一方だけを都合よく切り取ってしまえばたしかに作品はキレイに整うかもしれないが、そこから迫真性はきっと失われてしまうだろう。これは啓蒙でもなければ思想宣伝でもないのだ。
だからこの映画はかなりのカオスである。江戸川乱歩の描くパノラマ地獄や地下迷宮、夢野久作の描く思考の散乱や猟奇的ロマンティシズム、公害問題に代表される高度経済成長期の暗部、原爆被害と奇形のイメージ、おそらく原田浩本人の幼少期の記憶、母への愛憎、少年読み物の冒険の世界、アングラ演劇の世界、万博への憧れと嫌悪、68年学生運動の残滓、倒錯したエロティシズム、区別されない歴史と都市伝説、からくりと幻術、戦争の原動力としての家父長制の呪いのような連鎖、大日本帝国の戦争責任の追求…等々、多種多様なモチーフやテーマがまったく溶け合うことなく、アート用語でいうところのミクストメディアというやつで、おびただしい種類の素材が自由な手法で、ときにあっけなく、ときに偏執的に何度も繰り返して、際限なくスクリーンに展開される。ジャンルを言うならば原田浩としか言いようがない。これは原田浩の脳髄に穴を開けて原田浩とはどういう人間かを覗き込む、観客を変質者へと変貌させる映画なんである。
なお原田浩の映画といえばアングラ演劇風の仕掛け付き上映、もちろんこの映画も仕掛け付きで上映されたが、こんな仕掛けがあったとインターネットに書いてしまうとなんか白けるので、仕掛けについても詳細は記さずにおく。まったく原田浩を知らない人のためにイメージだけ言うと完全に人力の4DX上映でありIMAXないしスクリーンX上映。といっても仕掛けは作品とか場所とか上映時期によって変わるはずなので、それも一概にはどうと言えない感じである。まぁともかくこういう映画が『極彩色肉筆絵巻 座敷牢』です。映画におけるアウトサイダーアートの至宝ではないですかねぇ。