午後ロー的にほぼ満点映画『MERCY/マーシー AI裁判』感想文

《推定睡眠時間:0分》

ティムール・ベクマンベトフという名前を聞いて『ナイト・ウォッチ』『ウォンテッド』を思い浮かべる中高年は少なくないと思われるがここ数年、いや10年ぐらいものあいだ、ベクマンベトフといえば実はスクリーン・ライフ映画の旗手であった。説明しよう! いや説明そんなにいらないか。スクリーン・ライフ映画というのはPC画面だけで展開される映画を指す。具体的には『アンフレンデッド』『Search』、それから最近悪い意味で話題になったりもした『ウォー・オブ・ザ・ワールド』とかで、ベクマンベトフはこれらの作品で製作を担当していたのだ。『ウォー・オブ・ザ・ワールド』で多少やらかしたとはいえ一発ネタ感の強いスクリーン・ライフ映画を何本も成功させてきたベクマンベトフは今やこのジャンルの並ぶ者なき帝王。そんな帝王ベクマンベトフがついに自ら監督したスクリーン・ライフ映画の決定版がこの『MERCY/マーシー AI裁判』なのだ。

時は近未来、例によってアメリカは治安悪化で終わりかけていたので裁判をAIに任せることにする。AIはすごい。人間よりも間違いが少ないし平等だし処理も速い。ということでついでに弁護士制度も廃止してそれもAI裁判官にやってもらうこととなり、AIと被告が一対一でやりとりしながら90分以内に有罪率が94%ぐらいを下回れば無罪、上回れば有罪というゲーム感覚の裁判が誕生した。そこに放り込まれたのはもちろん身に覚えの無い妻殺しの嫌疑をかけられた酒浸りの刑事である。はたしてこのわりと人を殺してそうな見た目をしている刑事は冤罪を証明し無罪を勝ち取ることができるのだろうか。それともやっぱり殺しているのだろうか……?

ざっとこんな映画が『MERCY/マーシー AI裁判』だが、さすがスクリーン・ライフ映画の帝王にして元々は超絶技巧アクションで鳴らしたベクマンベトフ、スクリーン・ライフ映画ではおそらくいちばんの成功を収めた『Search』を踏襲したどんでん返し連続の犯人捜しミステリーを基調としつつ、後半は銃撃戦、爆破、カーチェイスとアクションてんこ盛り、まさに息もつかせぬという形容詞がぴったりの実に午後ロー的満足度の高い一級品のB級SFサスペンス・アクションとなっていた。

ベクマンベトフが手掛けたこれまでのスクリーン・ライフ映画は現代が舞台だったが今回は近未来が舞台なのでSFガジェットがいろいろと出てくるのも嬉しい。『未来警察』を彷彿とさせるラジコン爆弾も懐かしい未来感でイイ感じだが白眉はやはり有人クアッドコプター。これは警察官が乗る空飛ぶバイクのようなものなのだが、こいつを駆って女性警官が都市中空を飛び回るのがカッコイイし、CG丸出しのあり得ないデザインとか飛行法じゃあなく、わりと実現しそうかもと思わせる地に足の付いた構造と挙動になっているところにグッとくる(そこのリアリティとAI裁判のリアリティに落差がありすぎるだろとかそういうことは言うんじゃない)

基本的には午後ロー系のB級娯楽映画であるからして深いものや考えられさせるところなどまったくなく言ってしまえばハリウッド映画の「いつものアレ」でしかないのだが(そしてだからこそ面白いのだが)、サブテーマとして「誰だって間違うことがある」が入ってくるのがちょっとだけ作り手の良心を感じるところで、その見せ方はあまりにもB級的に強引だとしても、少なくない人たちが自分の絶対的な正しさと「敵」の絶対的な誤りという善悪二元論の誘惑に抗えないでいるように見える当今であるから、こういう良心は存外ありがたいものかもしれない。

この映画では出てくる人物のほとんど全員が大なり小なりなんらかの間違った行いをしているわけで、AIも当然のこと例外ではないのだが、だから誰か特定の一人を糾弾しようとはしない。たとえ殺人犯といえども犯人には犯人なりの汲むべき情状というものがあるという風に描かれるし、じゃあ犯人を追及する側が絶対的に正しいのかといえばそうとも描かず、AI裁判というシステムも含めた「正義」の側の間違いや負い目もB級ながらしっかりと描く映画なのだ。

というよりも、B級だからこそ、なのかもしれない。真面目な社会派映画を作ろうとする人は大抵なにかに対して強い憤りを覚えていたりするので、その題材に対して「どっちもどっち」のような態度を取ることは、とりわけアメリカのような善悪二元論の強い国では、SNSの過剰依存がもたらすエコーチェンバー効果もあり、今では難しいことになってしまった。けれども現実には善も悪も被害者も加害者も100%ピュアな状態では存在しないわけで、すべての人間や制度や集団や出来事などは、公正かつ客観的に分析するならば、どんなに極端な比率であっても必ず善と悪と被害と加害が入り混じった状態で存在しているのである。これはたとえば悪という概念が存在しない場合には善という概念も存在できず、論理上、善は悪をその必要不可欠な構成要素としている、ということを考えれば理解してもらえるとおもう。

そうしたことを『MERCY/マーシー AI裁判』はあくまでもB級娯楽として楽しく教えてくれる。肩肘張った社会派映画ではほとんど不可能になってしまった客観視の姿勢が、客観的に人間の事実を見つめようとする姿勢が、この映画にはあった。だからいろいろ人は死んでもラストはとっても爽やかである。人間もAIもみんな間違うことはあって、絶対的に正しい人などこの世に一人もいないという認識は、人に怒りや攻撃や独善をもたらす代わりに、理解や赦しや反省の気分をもたらすからだ。タイトルのMERCYとは慈悲の意。そうした態度が怒りのインターネット(主にツイッター)によって人々からすっかり失われてしまったように見える今日であるから、こーゆーものはとてもりっぱな映画といえよう。そんなりっぱさをおくびにも出さないところも含めて!

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