俺には無理だった感想『ウィーアーリトルゾンビーズ』(悪口注意)

《推定睡眠時間:0分》

斎場で出会った両親喪失中学生四人がバンドを結成したら超絶ヒット、だが汚い業界大人たちやネットのくそったれどもの食い物にされていることに気付いた彼らは…というようなお話。
ああ、いいっすね。うん、いいんじゃないすか? いいんじゃないかと思いますよコントラストの強いケレン味たっぷりの奇想MV映像、中学生リアルを切り取ろうとしたのかもしれない日常会話的な脱力台詞とよゐこ風の棒読み棒立ち芝居、かっこいい8bitサウンドと社会風刺を織り交ぜたコミカルでシュールなシナリオ…堤幸彦、岩井俊二、中島哲也の系譜。いいんじゃないすか。いいんじゃないかと思うよ。

でも気に入らねぇ。クソ気に入らねぇ。それはたとえば「絶望だっさ!」とか「人生ってカフカの城じゃん」みたいな台詞を平然と回す感覚が俺にしたらクソだせえというのもあるが、やはり出会ったタイミングが悪かったのだとおもう。
なんていうんですか、斬新な映像スタイルがシナリオを食うタイプの映画ってあるじゃないですか。これそれなんですけど最近そんな映画ばかり観ていたので食傷の腹下しですよ。

『ホットギミック』、カット数の異常な多さとギミック付けまくりの映像でティーンエイジャーの心情を表現するようなところが『ウィーアーリトルゾンビーズ』とはよく似ていた気がしたがこれは面白かった、なにせ監督が山戸結希だから普通の映画であるはずがないのですがそんなことは全然知らず普通のキラキラ映画だと思って観に行ったのでビッグインパクトだったし、キラキラジャンルの物語構造を目まぐるしい過剰な映像でひっくり返してジャンル固有のグロテスクさを露わにしてしまう攻撃性がすばらしい。

それから『ダイナー』、蜷川実花の映画ですからこれも普通の…まぁなにが普通の映画かという議論はありますがそれはひとまず置いておくとして、ともかく普通の映画じゃない。
ガーリーにパンキッシュ。舞台美術的な過剰装飾や写真の中の女が動いたりするコミック感覚、咲き誇る花々や色彩の乱舞が女というよりは女子の衝動の表現になっていて、居場所が見つけられず男どもに食い物にされる女子たちよ立ち上がれというようなガールズ・パワーの映画という意味で『ホットギミック』とも通ずる。

圧倒的な映像の前でシナリオは骨抜きにされて言葉の論理はガラガラ瓦解、これが私だ! これが私だ! これが私だ! 私は今ここにいる! ここでのシナリオは「私」に従属するものでしかない。キラキラ映画の主人公がどれを見ても似たり寄ったりの没個性キャラであるようにシナリオこそが「私」を縛る敵なのである。

結構。大いに。でも一週間ぐらいしか間を置かずにそんなの続けて観たらちゃんとした映画見せろよなるじゃん。そらそういう飛び道具もたまに観れば面白いけどさぁ、別にアーティストの表現物として良いとか悪いとか言うつもりもないけどさぁ、『トレインスポッティング』みたいな映画ばかり毎週新作として観たいかって話ですよ。あるいは毎週観る新作が寺山修司みたいなやつばかりだったらどうよって話です。

いや観たい人もいるかもしれませんけど俺は正直きついからね。それはもう、きつい。単品だとすばらしいと感じられるものも続けて観ると嫌になってくるということはあるでしょ。それにキュビスムの絵画だけをたくさん集めて展覧会にしたらキュビスムに本来備わっているはずの衝撃はその空間では失われてしまう。他の絵画との比較で見るからキュビスムは面白いのだし、それは極端な例ですけど何のジャンルにだって言えることなんじゃないすかね。

ホラーばっか見てたらホラー慣れして全然怖く見れなくなってくる、ラブストーリーばかり見てたらラブストーリー慣れして全然ラブを感じなくなる、でもラブストーリーを観た後にホラーを観たらきっと刺激的だ。逆もまた然り。多様性を欠いた映画鑑賞はつまらない。

で俺は、俺はですね、『ホットギミック』と『ダイナー』と『ウィーアーリトルゾンビーズ』を一ヶ月以内の超タイトなスパンで観てるんですよ。そりゃいい加減にしろよってなりますよ。競走馬だったら確実に故障して牧場送りになってますよ。こんあのある意味では全部同じじゃないですか。居場所のない若者の居場所探しをMV的な映像感覚でやるっていう。

だから『ウィーアーリトルゾンビーズ』は作品単体ではきっと悪い映画ではないのだろうと思いますが今の俺にはまったくむかつく映画だった。
もう文句しか出てこない。本当に文句しか出てこないよ。たとえば、事故で両親を失った主人公のメガネ男子中学生はいつもゲームボーイ的なやつでドット絵のドラクエ風RPGをやっていてこのゲームが映像の基調モチーフになっているのですが、こんなの意味不明じゃないですか。今の中学生がゲームボーイ(的な)で遊ぶとかあんまりないじゃないですか。それは広い世界を探せばあえてレトロゲームを選ぶマニアックで奇特なやつもいると思いますけどそういう話でもないし。

結局「私」なんですよ。監督の人がたぶんファミコン世代ゲームボーイ世代だから「私」のセンスや想い出を両親の死んだ中学生キャラに押しつけてるんです。それで生きにくい現代の中学生の心情を代弁しようとするってテーマに対する不誠実もいいところだし厚顔無恥にも程があるわ。

中学生のレトロゲーム趣味に関しては両親が買い与えてくれたレトロゲームをやりすぎて近眼になった(これもまた昭和センスだわ)こいつが自分の近眼を両親がくれたものとして大事にしたいと語る場面があるように、両親を理解したくてずっとやってるっていう側面があるので単に「私」の押しつけだけじゃないっていうのはまぁわかる。

わかるんですが、ですが、映画の最後らへんでそのゲーム画面に「GAME CLEAR」とか平然と出してくるとやっぱりハァ? ってなるんです。そんなの出ないじゃんレトロゲームのエンディング。「GAME OVER」とかじゃん。いやまぁ中には出るやつも…もうそういう例外を考えていくとキリがないからやめますが! 本当そういう…モチーフを「私」の都合のいいように使うところが嫌だったなぁ。

両親の死んだ中学生四人組っていうのだってそのスタイルが欲しかったってだけですよ。だって両親が死んでないと描けない固有の事情なんて少しもなかったじゃないですか。親から疎外された子供たちがたまたま出会って家出してバンドして、みたいなプロットで描けるものの範疇じゃないですか。

映像最優先でそれさえまともに描かないのだけれどもこれじゃあ劇中のレコード会社の大人たちや貧乏マネージャーとやってることが同じじゃないですか。(シナリオ上で)両親殺した方が面白いだろうみたいな浅薄なお涙搾取じゃないですか。「私」の表現欲求のためにガキどもを奉仕させてるじゃないですか。

そうやって少しもガキどもの都合なんか考えないくせに俺は子供たちの側に立つぜみたいな偽善的な親身を気取る。ここがいちばん腹立たしかった。こんなところに中学生のリアルがあるかよ。リアルな生きにくさとリアルな救いの実践があるか。そんなつもりで撮ってねぇよってんならなんでこんなプロット採用したのよ。

わからないならわからないと言えばいいじゃないですか。自分はそこそこ安定した地位と居場所を持った大人で、もう君たちの苦しさは理解できないと正直に吐露したらいいのに。
MV映画の先駆者たる堤幸彦はその大人の視点から『十二人の死にたい子どもたち』を撮っていたように思うし、だから俺は堤幸彦えらいなって思いましたよ。大人が子供を(察することはできても)理解不能な他者として眺めることは安易なわかったつもりよりもよほど真摯に子供を理解しようとすることで、また尊重することでしょうよ。

MVとして観るなら全然おもしろいし音楽もかっこいいから別に言うことはないですよ、別に。でも子供映画として観たら『ウィーアーリトルゾンビーズ』の二時間で描かれているものなんてホンマタカシの不機嫌なガキどもの写真一枚分にも満たないですよ。

ようするに、ようするに! 俺はこの不真面目さがめちゃくちゃ嫌いで…ただあれですよねやっぱ観る順番とかあるから! 『ホットギミック』よりも『ダイナー』よりも先に観ていたらこんなにムカつかずに済んだかもしれないですね! 公開数ヶ月前から渋谷を歩くとやたらこの映画の宣伝にぶつかっていたので既にその時点で嫌悪感はありましたが!

補足:
四人の子供たちの演技はみんなすばらしかったです。とくに町工場の息子と紅一点の人は良かったなぁ。

【ママー!これ買ってー!】


カエルの為に鐘は鳴る

建物の外から中に入る場面転換の際にすごく『カエルの為に鐘は鳴る』っぽいSEが使われていた『ウィーアーリトルゾンビーズ』です。

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