どう受け止めればいいんだよ映画『アンテベラム』感想文

《推定睡眠時間:0分》

何はなくとも長回しの移動撮影などが出てきてしまえばそれだけで脊髄反射的にオッケーな感じになってしまうのが単細胞の映画好きなので南部奴隷プランテーションの奴隷主白人豪邸~兵舎~綿花畑~前線へと続く森までを数分に渡るワンカットで捉えたファーストシーンにもう不穏なわくわくどきどきが止まらない、そこから始まる黒人奴隷たちの地獄農場生活も『マンディンゴ』を彷彿とさせる容赦のないものでおおこれはなんだかすごい映画だ、すごいけどキツイ映画だ…となるのであった。

でもそのキツさとは別のキツさもあってそれは要するにこれがとてもよくできた映画だから。後から言い訳したくないので先に言っておきますけど俺は少なくとも映画においてはっていうか映画の政治においては穏健保守というところで何か政治的な主張がある映画に関しては結構距離を取ってしまう。というのは映画は事実をいかようにも操作できるメディアだからで、まぁ操作しようと思えば別に映画じゃなくても他のあらゆるメディアで事実は操作できるわけですけど、映画の場合は「没入感」とか最近よく言われるように観客とメディアが他のメディアのようには同等の立場にはなくて、観客は一旦自分の思考を放棄して映画の内容をとりあえずはそのまま受け入れることを求められる(そうじゃないと楽しめないので)。

受け入れた後にこれはどうだあれはこうだと自分なりに映画を咀嚼したり議論をしたり色々調べ物をしたりしてその映画体験を深化させる人もいれば、こういう映画を見た、というだけでその映画の体験を終わらせる人もいる。そういう人はたとえば映画の中で何か事実とは反することであったり差別的なことであったりが肯定的に描かれていた場合にそれもそのまま受け入れてしまうかもしれない。一時的なものであっても観客の思考停止を要求する映画というメディアはそれでいて他のメディアよりも人の感情を強く動かすわけだから、描かれる事柄によってはある種の情報兵器になる。

映画のプロパガンダ利用は第二次世界大戦では各国で広く行われたし(言うまでもなくその最大のものはナチスの民族主義映画だが、ディズニーの戦意高揚アニメもその影響力からすれば忘れていいものではない)現在でもより洗練された形で行われている。分かりやすいのは中国やロシアの国策アクション映画だが、いかにもわたしたちが国策映画でございますという顔をしているこれらの映画に比べて表向きはプロパガンダの意図を出そうとしないハリウッド資本のアクション映画が、宣伝性の点でザ・国策映画よりも劣っているということはない。

厄介さ、という点ではむしろ国策映画の顔をした国策映画よりも勝っていることさえあって、ハリウッド資本(というか欧米資本)のスパイ映画でロシアが出てくるときにはいかにロシアが野蛮な国かが執拗に描写されるが、それをプロパガンダとして受け取る人はおそらく相当に少ない、けれどもその映画を見た人はほとんど例外なく「ロシアって怖いな~」と思うはずである。実際、こうしたものは目的を持ったプロパガンダというよりは単なる作り手の偏見に過ぎないかもしれない。しかし、その偏見を多くの観客がそのまま受け取って内面化するなら、結果的にプロパガンダと区別ができない。その偏見が「ロシア怖いな~」みたいな政治的な偏見であれば尚のことそうだろう。

長いね、うん長い! あと『アンテベラム』関係ない! いやでもさ、俺はだから映画の政治性には多少敏感すぎるぐらいの方がいいと思ってて、現実社会に蔓延する人種や性別や宗教についての偏見というのはそんな風にして日常の中で気づかない形で日々強化されて、それがいつの間にか頭の中で「事実」になってしまったりすると思ってるので、偏見に基づく社会の分断というものを少しでも減らしたいのなら社会の中に散在するその芽の存在ぐらいは意識した方がいいんじゃないかっていうのがあって、それで、『アンテベラム』みたいな映画を俺はちょっとそのままの形では受け入れられないわけです。それはなぜかというと、これが反黒人差別を非常に強く打ち出した映画で、にも関わらずこの映画が生産する偏見には無頓着すぎるように思われたから。それは危ないことだと俺は思う。

ファーストシーンぐらいしか内容に触れないままついにここまで来てしまった。まぁでもちょうどいいよな、ジョーダン・ピール以降のブラック・ホラーだから前情報を入れずに劇場にお越し下さい感あるし。で、情報を入れないで観ると結構おおってなる。脚本はそこまで意外性のあるものではないと思うが映像も演出もSE含めて音楽も見事だし、アメリカの負の歴史を勇猛果敢に駆け抜けて古い世界の壁を突き破る新時代の黒人女性、というクライマックスには思わず身を乗り出してしまう力強さがあった。映画としての出来は素晴らしいと思う。

でもまぁ、だからこそっていうのがあるんだよ。その素晴らしい筆致で描かれるアメリカはブラックパワーとラディカルフェミニズムを下地にして、黒人女性たちは誰もが強く賢く社会的に成功していて、黒人男性たちは誰もが強く優しくジェントルで、南部の白人女性たちは全員黒人を敵視していて、南部の白人男性たちは肉体的にも知能的にもハムスターレベルのくせに自分たちこそ黒人を支配すべきと信じて疑わずしかも白人女性のやらかしの後始末を任せる単なるゴミで存在価値なし…という図式になる。

自分で書いててそれ面白いじゃんって思うんですけど、でも俺はそこにアイロニーを感じて面白がってるんであって、この映画で描かれるそれにはアイロニーとか一切ないし遊びも一切ない。非常にシリアスにこういう世界観を提示していて、これが本当の世界の形だからって感じで黒人観客を鼓舞する作りになってるわけです。ジョーダン・ピール以降を感じさせる作品ですけどジョーダン・ピールと違うのはその点で、ジョーダン・ピールの映画ってシリアスな中にもやっぱりユーモアと遊びがあるから、人種差別問題に鋭利に切り込みつつもそういうアジテーショナルな方向には行かないんですよね。

こういう明瞭簡潔な人種観と黒人観客(とくに女性)を鼓舞する作りってブラックスプロイテーション映画に極めて近い。でもブラックスプロイテーション映画は基本的にはB級映画で、B級映画っていうのは俺定義では「これは面白いし痛快だけどあくまでも作り物ですよ」のお約束を作り手と観客が共有しているものですけど(だからめっちゃ強いヒーロー的な黒人が出てくるし、出せる)、『アンテベラム』はさすがにその展開に関しては作り手と観客がお約束を共有してるとしても人種観についてはあまりそう思えないので、やっぱそこが俺は引っかかったな。だって憎しみの発露にしか見えないもん。『黒いジャガー』とか『コフィー』みたいなB級ブラックスプロイテーション映画でリチャード・ラウンドツリーとかパム・グリアが憎々しいクズ白人男性を倒すのは痛快で楽しいけど、この映画は憎しみとそれが作り出す偏見が強すぎてそうは受け取れないですよ。

アメリカ社会における人種間の非対称性とその歴史を踏まえれば黒人の作り手が主に南部の白人男性全員死ねゴミどもがっていう映画を作ってはいけないという権利は誰にもないしたとえ権利があっても行使すべきではないと思いますけど、トランプ以降の傾向で最近のアメリカ映画は田舎の貧乏白人の境遇と痛みをちゃんと理解しようとする融和的なものが増えてきて、そういう映画の多くは主人公が東部都市部のインテリ白人とかだったりするのでこの映画とはまた事情が違ってくるところはあるんですけど、まぁそういう風潮がある中でこうもストレートに南部の没落貧乏白人たちを敵視する映画っていうのはやっぱ動揺させられる。分断の修復なんか今後一切あり得ないし南部の白人はどうせ放っとけばどんどん減ってくから修復する意味もないから、と言われてるみたいで(それはまぁ実際そうなんだけど)

敵に偏見を持つ人は味方にも偏見を持つ。それは明瞭な黒人優位の人種観を提示するこの映画が言うならば「こぼれ落ちた」黒人は描こうとせず、もしこぼれ落ちた黒人がいるとすればそれは白人のせいでそうなったのだという形で、こぼれ落ちた人の固有性や他者性は排除してしまうことからわかるのではないかと思う。こうしたアイデンティティ・ポリティクスは膠着した政治状況を突破する力をその集団に与える一方でそこに属する個人の生を束縛する点で諸刃の剣であり、この映画の場合であれば「白人が××ならば、黒人は○○であるべきだ」の偏見を自ら再生産してしまっている面はやはりあるのではないだろうか。

なんかだから、難しい映画だなと思ったな。非難する資格はこっちにゃないしね。かといって俺はアメリカ暮らしの黒人じゃないからウォーって勇気づけられることもできないし。政治を抜きにして単純に楽しむことも政治性が強すぎてできない。率直に言って、俺にはこの映画をどう受け止めていいのかわからないのである(だからこうして感想がダラダラと長くなるのである…)

【ママー!これ買ってー!】


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なんだか奇妙に感じられるのだがアメリカ映画界における黒人権利活動家・理論家の急先鋒であるスパイク・リーが南部の貧乏白人男性どもの集うKKKとアフロな黒人刑事の戦いを皮肉とサスペンスたっぷりに描いたこの『ブラック・クランズマン』の方が『アンテベラム』よりも断然白人男性の描き方に容赦がない(※リアルにその荒廃っぷりを描いているため)のにこっちは憎悪を煽る感じは全然なくて、むしろこの壊れた貧乏白人たちをどうにかして救ってやらないといかんな的な気分になる。思うにそれはスパイク・リーが白人だからとか黒人だからとかじゃなくて個人として人間を見ているからで、回り道に見えても結局はそれが差別に対する一番のカウンターになるのではないかと思う。

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