大韓民国大暴力祭映画『ハント』(2023)感想文

《推定睡眠時間:0分》

最近世間で流行っている風のコミック感覚の殺し屋映画というのにどうも俺はノれなくて一例は『ジョン・ウィック』シリーズなのだがなんか最新作では防弾スーツなるアイテムを主人公らは着用しているので銃で撃ち合いをしても双方なかなか死なないのだとか。ふぅん。まぁ別にそれは構わないが撃っても死なない銃撃戦の何が面白いのだろう『スプラトゥーン』じゃあるまいしと俺としては思ってしまい、その暴力性の脱色された銃撃戦アクションというのは要はある種のダンスでしかないんじゃないかとかも思うわけである。K-POPやインド映画などダンスが主眼のエンタメが大流行している昨今なので、そう考えれば合点はいくのだが。

銃を撃てば人は死ぬ。ナイフで刺せば人は死ぬ。じゃあそれを徹底すればいいのかといえばそういうことでもない気がするので映画におけるこの手の描写は難しい。今年の春先に公開されてホラーマニア界隈で話題を呼んだコリアン・スプラッター最終兵器『オオカミ狩り』はかの『ブレインデッド』を凌ぐんじゃないかというレベルで人間の手足が千切れ頭部は潰れ血は盛大にじゃんじゃか噴き出して止まらない2時間の血の祝祭であったが、これはこれでここまでくるとやはりコミックで、逆にその暴力にリアルな暴力性が感じられずちょっと白けてしまうのであった。

そんな中で現れたこの『ハント』、久々にイイ暴力に彩られたかなり最高めな韓国映画だったな。時は軍部による強権政治と民主化を要求する市民の間で緊張状態が続いていた1980年代、国家安全企画部(旧KCIA)は日常業務の民主派市民の弾圧・拷問などに加えて大統領の暗殺阻止や北朝鮮の介入阻止のために様々なひみつ作戦を実行したりしなければならずてんてこまい、ただでさえ忙しいところに持ち上がったのは国家安全企画部内にスパイがいてそっから情報漏れてるんじゃないか疑惑であった。かねてより反目していた国家安全企画部の国内班と海外班はかくして疑心暗鬼の渦に突入、お互いにそれぞれの関係者をしょっ引いてきて拷問にかけたりなんかして共食い自滅していくかに見えたが…とこのようなお話。

イイ暴力映画というのはやや逆説的だが暴力そのものではなく暴力の香りがある映画のことを言う。プロの拷問者は決して暴力そのものは安売りしないもので、暴力の香りによって拷問を受ける大抵は可哀相な人に暴力を行使することなく最大限の恐怖を与え、その恐怖によって自白を引き出すわけである。それはそうよね拷問してたらついやりすぎて殺しちゃったみたいなことになったら上司に怒られると思うし、死なないまでも相手に重い後遺症を残してしまえば情報屋登用などの二次利用はしにくくなる。ときに暴力の香りは暴力そのものよりもおそろしく、人間を支配する。こういうお話なので『ハント』には拷問的な場面がたくさん出てくるのだがその多くは事後または事前であり、拷問そのものの描写は実はごくわずかというあたり、実によく暴力の効果ではなく効用を理解した映画だなと唸らされる。

マ・ドンソクのスター化に如実に表れている現代韓国映画界のバイオレンス志向からアクション志向への変化の波に抗うようにゼロ年代後半~テン年代のコリアン・ノワールを彷彿とさせる暴力の香りむんむんの『ハント』だが、香りだけでは終わらないのが冒頭にわざわざ「この映画は80年代韓国を舞台にしたフィクションである」の注意テロップが入るゆえんである。アメリカでベトナムで東京でもう世界各地で韓国諜報と北朝鮮諜報が大銃撃戦を大展開して気分だけじゃなく実際にもう戦争! このアクションの激しさといったら壮絶なものがあるがここでは銃が撃たれれば物が壊れ人は出血しそして死ぬというのが徹底されサディスティックにしてニヒリスティック、吹き荒れる暴力の嵐がなにも台詞にせずとも暴力の後に残るものをまさしく暴力的にこれでもかと観客(俺)にわからせるのであった。戦争反対!

暴力は、一度始めたらやめられないとまでは言わないが、始めるハードルの低さに比べてそれを停止するために要する労力は不当なほどに多い。大義のための暴力を容認した国家安全企画部職員の主人公(監督兼任のイ・ジョンジェ)はある日民主派の学生を拷問している同僚がそれを楽しんでいる光景を目にしてしまう。大義のための暴力はいつのまにか個人の快楽のための虐待にまで落ちてしまった。理想を成すための暴力は暴力を為すための暴力へと転じ、主人公ら国家安全企画部の職員たちはお互いに疑い監視し拷問しそして殺害することで自滅していく。組織の暴力が暴力によって正当化されるとき、辿り着く先は内ゲバと内部崩壊でしかないことは人類の歴史が幾度となく証明しているところである。

この圧倒的不毛。そうだそうだ、これこそがコリアン・ノワールだ。最近はコリアン・ノワールとは名ばかりのスタイリッシュなサスペンス映画が多くて面白いは面白いし大抵完成度も素晴らしく高いのでそれが悪いわけではないのだが、容赦の無い即物的な暴力を通してその先にある人類の罪とでも言えるような普遍的な虚無の風景を現出させるのがやはりコリアン・ノワールではないかと俺は思う。そしてそれは残酷にも美しさや安堵を感じさせるのだ。次から次へと暴力と策謀が連鎖する目まぐるしい展開は観ている側を躁の状態に誘導してまぁこれぐらいの暴力ならいいか、向こうもどうせやっているし、と不謹慎な気分にさせるが、そんな楽しい暴力も際限なく続くとさすがに観ていて疲れてくる。だから、暴力の連鎖が臨界点に達して破局的な暴力が当事者たちを(ほぼ)みな殺しにするとき、その荒涼とした景色はカタルシスを生じさせるのである。

ああ、これでやっと人間に戻れる。暴力が終わる。だが本当か? そのポストアポカリプトな平和が暴力によって築かれたものであるなら、それはその平和によって暴力の必要性を証すことになるんじゃないだろうか。仮初めの平和はいつかまた暴力を生み、暴力は暴力を生むだろう。そう予感させる希望とも絶望ともあるいはそのどちらでもない虚無ともつかない幕切れは実に立派、実にコリアン・ノワール。いやぁ、すばらしい映画でしたねぇ。

【ママー!これ買ってー!】


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80年代の国家安全企画部を題材にしている『ハント』の前史となるのが70年代パク・チョンヒ政権下の国家安全企画部前身KCIAの暗闘を描くこちらもコリアン・ノワール力作『KCIA』なので二本立て鑑賞わりとオススメです。

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