カオス映画二本立て感想文『インフル病みのペトロフ家』『アンラッキー・セックス』

イメージフォーラムでやってる偉い賞を取ったとか取らなかったとかなアート映画を二本観てきたのでまとめて感想二本立て。インフルエンザになっちゃってわけわかんなくなる『インフル病みのペトロフ家』とプライベートセックス動画が流出しちゃってわけわかんなくなる『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版』です。

『インフル病みのペトロフ家』

《推定睡眠時間:100分》

インフルエンザに罹って意識が朦朧、妄想と現実と回想が混然一体となったカオス・ロシアを漂う主人公に負けじとこちらも睡魔にやられて意識朦朧、なにを観ているのか基本的に一切把握できないままカオティックな映像の波に飲まれるというある意味たいへん正しい観方をしてしまったので主人公同様になにがなんだかまったくわからない。

なんとなくで印象で言うならば…この監督の前作『LETO レト』は俺はすごい好きでその年のマイベストテンに入れようと思ったぐらいなんですけど、『LETO』はソ連末期ぐらいの話で主人公はニューウェーブ系のロックをやってる人だから体制もしくは社会に抑圧される人っていうテーマは前面に出る。でトーキング・ヘッズとか西側の新しいロックに乗せて主人公たちがバスの中とか電車の中とかで縦横無尽に暴れまわるシーンの超絶技巧長回しが最高でめちゃくちゃテンション上がる、で上がった後に「これは空想!」みたいな文字の書かれたプラカードを持ったオッサンが画面に入ってきて苦い気持ちにさせられるわけですね。現実にはこんな風に暴れられなかったんだよなぁっていう。

だから『インフル病みのペトロフ家』もそれが基調にあるんじゃないかと思う。抑圧的な体制から逃げたくて妄想を走らせ過去の世界に逃げ込んだりするけど、所詮そんなものは現実を変える役には立たないっていう諦観。映画の終盤で自分の家にいたはずの主人公がいつのまにか巨大化して窓の外からドールハウス化した自分の家を覗き込んでいるというギョッとするシーンがあって、その意図するところは思うに自分で自分を監視する=抵抗する気力もなく抑圧的な体制に馴致されてしまった、ということではないだろうか。

猥雑なカーニバルのムードはロシア映画の伝統を受け継ぐもので冒頭のバス車内をはじめ汚らしい民衆の風景はどれもすばらしい。そのバスは映画の終着点でもあった。社会に押しつけられた服従の現実、あるいはプーチン体制の騙る偽現実を押しのけて、どこかどこかへ逃げているうちに、その誰か(誰なのかもわからない!)はバスに戻ってきてしまうのだ。現代ロシアの閉塞感を奔放なイマジネーションと痛烈にして暗黙の体制批判を交えて描いた悪夢のような、だからこそ「これぞ」なロシア映画だったんじゃないかと思う。本当はこういう映画のたくさん出てくる文化的に豊かな国だったんですよねぇプーチンが掌握する前のロシアはねぇ。

『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版』

《推定睡眠時間:0分》

でこっちはこっちでまたカオスな映画で一応大筋としてはプライベートのセックスビデオが流出しちゃって保護者たちの判断次第では解雇されちゃうかもっていう女教師が保護者たちを説得しようとする映画って感じですけど、映画は三部に分かれていて第一部は夜の保護者説明会に向けていろいろ準備する主人公と一緒にルーマニアの街(※ルーマニア映画)を見ていく風景主体のセミドキュメンタリーパート。ルーマニアの街中に氾濫する様々なオブジェや商品や広告をカメラは次々と主人公そっちのけで捉えてちょっとした人々の衝突なども描かれる。われわれの暮らす現代のルーマニア社会とはどんなものか、というのを俯瞰して見せるパートって言える。

で第二部。第二部はいきなり『悪魔の辞典』の映像版みたいになって色んな語句をときにシニカルにときにシュールにときにシリアスになかなか意味の掴みづらいイメージ映像や引用フィルムを用いてテロップで解説していくんですが、これは意表を突かれるよね、あぁどうなるのかな説明会うまくいくかなって思ってたらパッと見全然関係ないモンティ・パイソンのスケッチみたいなのが始まっちゃうんだもん!

そういう衝撃の第二部を挟んで第三部はやっと説明会の場面になるわけですがここも人を食っていてすごい風刺的な討論が繰り広げられるというか、色んな保護者がいるわけですけどそれはあくまでもルーマニア社会の縮図として戯画的に配置されたもので生きた人間として描かれているわけじゃない。セックスに関する被害を受けた女性(主人公)がルーマニア社会の中でどんな攻撃に晒されるか、どんな風に見られるかっていうのがこの場面で描かれることで、リベラル男は良識的だが引用をペラペラ話すだけで相手の話を聞こうとしない、エリート教育ママは身勝手で臭いものに蓋をしようとする、軍人男はまったく関係ない差別思想をまき散らし、なにもわかっていないバカオッサンは言葉尻に反応して野次を入れる…とかまぁそんな具合。

ところでこの映画、「監督〈自己検閲〉版」とあるようにセックスが画面に映ると広告じみた巨大な目隠しが画面を多いそこに目隠しの向こうで起こっている出来事が落書き風のテロップで出る(フェラしてる、チンコでかい、とか)ふざけた仕掛けがあるのだが、これが効果を発揮するのはラストシーンで、バカバカしくも胸のすく展開が容易されているのだが、それも性的だからと「自己検閲」が入ってまともに見ることができない! 検閲はどのような目的を持ったものであれ必ず「保護」をお題目に掲げて行われるもので、その保護が結果として弱者の抵抗をも封じてしまい見えなくしてしまうという皮肉だろうな。

じゃあ保護がない方がいいのかといえばそれはあった方がいいだろというのは主人公も参加する保護者説明会でセックスビデオをノンモザイクで「参考のため」流されることからもわかる。要するに、これはこうであれはああ式の単純思考がここでは批判されているんじゃなかろうか。世の中はカオスで絶対的なものなどないので状況をしっかり見つめて自分なりに思考していくしかない。それが現代社会で唯一可能な倫理的な行いだろう…とかなんとかそんな感じの映画、です。

※検閲テロップに「検閲=金」と何度も表示されてそうかなぁと思ったのだが、自分のことを振り返ればこのブログで数年前にユルグ・ブットゲライトという死体アートの映画監督の作品感想を書い際、グーグルアドセンス(※このブログで表示されてる文中広告は基本グーグルアドセンス経由のもの)「そのページは広告ルールに抵触するので広告は掲載できない」との通達が来たことがあった。そんな通達が来たことは他のページではないのでブットゲライトのアンモラルな作品世界とそれを表現するためのテキストが引っかかったされたと見てほぼ間違いない。

このブログの広告収入は月1500円ぐらいなのでブットゲライトのページだけ広告省いたところでなんの影響もないわけで、せっかく書いたテキストは修正せず広告を消すことにしたのだが、もっと大きなお金の動くページならテキストを修正して広告を載せることの方が多いだろう。「検閲=金」とはこのようなものを指しているんじゃないかと思う。検閲をパスするもの=全年齢対象の商品は、検閲に引っかかる商品よりも販路が広く金になるのだ。

【ママー!これ買ってー!】


『絞死刑』[DVD]

死刑直前に記憶を失った死刑囚とそれを取り巻く刑場の面々を通して日本社会を痛烈に批判する大島渚のスーパーブラックコメディ。『アンラッキー・セックス』はちょっとこれと似たところがある。

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