映画の方の『パンク侍、斬られて候』感想(ネタなし注意)

《推定睡眠時間:0分》

エンドロールで『アナーキー・イン・ザ・UK』とか流れちゃったらアガるじゃんそりゃあ。汚ったね。汚ったね! その開き直った身も蓋も無さがこういう映画にあってはダサさを超えて爽やかに澄んだ響きを帯びますからきったねぇってなります。大人が作ってるわーこれ世間知に長けた大人が作ってるわー。

なんかあるんです色々。思うところあるんですよあの最近、たとえばですね90年代悪趣味ブームを巡るよくあるネット論争があったじゃないですか。
後半の展開を見ていてあれが浮かんだので映画と対応しそうな部分を引用しよう。以下、論争に火を点けた雨宮処凛のテキストと、そのエアリプ的応答といえる虫塚虫蔵のテキスト。

私がそんな90年代サブカルに惹かれたのは、自分自身が「ゴミ」という自覚があったからだ。もっともハマっていたのは19〜24歳のフリーター時代。貧乏で、お先真っ暗で、自分以外の同世代の女子たちはキラキラ輝いて見えて、中学のいじめ以来ずっと対人恐怖で人間不信で、リストカットばかりしていた私にとって、鬼畜と言われるような世界に浸ることは、世の中への「復讐」のようなものだった
第447回:90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻

ここまで通して分かるように鬼畜ブームの作家というのは、鬼畜の皮を被っておきながら、ゲスな文脈で反語的に正義や哲学、世の真理といったメッセージを読者に伝えていたわけで、そこには冷徹な観察眼とリテラシー能力があった。
しかし、書き手の意図や真意までを見抜けなかった中二病読者や薬物中毒者には、青山も村崎も辟易させられたろうし、不甲斐なさも感じていたはずである
鬼畜系サブカルチャーの終焉/正しい悪趣味の衰退

と引用していて、しかし真意を見抜けない読者を置き去りにするのならその正義や哲学は誰のためにあったのか、見抜かれない真意は誰にとっての真意なのか、それ結局屈折したエリート主義じゃないか、中二病読者や薬物中毒者はエリートの慰み者だったのか、等々のおもいがふつふつ湧いてくるすなおなアウトオブ世代であるがそれはともかく、上ふたつの対立軸に加えてもうひとつ視座を追加すれば『パンク侍、斬られて候』の見事にネタバレしない解説のような感じになる。次の引用はロマン優光。

「普通」しか許されない社会に対するカウンターとしてのそれは、人間全てが糞であるという認識の元による平等性、多様性の容認に繋がるものを内包していたのです。そこに登場する人物を認め、そこに何があるのかを受け手は考えていくべきだったのだと私は思っています。しかし、結局は「そういう変なやつらをバカにして笑おう」「自分のゲスな欲望は何よりも尊重されるべき」「そういう変な奴らを利用して金をもうけよう」みたいな人間たちによって終わってしまったのです
雨宮処凛の『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻』を読んで

ところでなんでこれ三つ持ってきたのってあれですよ虫塚虫蔵(町田町蔵オマージュか?)という人をぼくは知らないのですがおネットによれば自称大学生とある。
雨宮処凛とロマン優光はほぼ同世代といってよい悪趣味リアタイ勢であるがほらこの世代違い三角形、この三角形見たでしょ『パンク侍、斬られて候』でも。
石井岳龍と町田康のパンク世代+宮藤官九郎のサブカル世代のトライアングル化学反応だったでしょうが映画版の『パンク侍、斬られて候』は!

というのもあって上記の90年代悪趣味論争が脳内に浮上したのであるが、引用メインとはいえここまで映画の内容に触れない感想というのもなかなかレアい。
いいんですよそこらへんはもうフリーダムですから。パンクですよ。これがパンクなんですよ! ちなみにここから先も当分映画の話にはなりません。

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それであの思うところというのはだ、そうね、上の虫塚さんのテキストを読んでいて、あくまで自称であるから実際はどうか知らないが、後追い世代の憧憬を感じるじゃないすか悪趣味フリーダム表現への。
でおれ宮藤官九郎もそういう感じでパンクっぽいのやってんのかなって思ってて。そのパンクっぽい表現物は現代的な冷めた笑いをまぶしてあるけれど、それって後追い世代の冷静な第三者視点を導入してるんじゃなくてむしろ、憧れの対象に決して時間的に近づけない人の自虐と屈折なんじゃないかっていうのがあって。

憧れの対象に近づけない人ってその対象よりも思想を先鋭化させたりするじゃないすかだいたいどんな分野でも。だから宮藤官九郎の脚本はパンク的なものの内に入れないで外から対象化することしかできない分だけあれ一番破壊的だよなこのパンク三角形でって思ってて。
石井岳龍とか町田康とかって表現の様式は自由だけれども核心のところではすごい太い筋が通ってるじゃないすか。明示的なものであれ暗黙的なものであれ確固たるメッセージとか体系化された思想が先にあって、フリーダムな様式をその表現手段としているようなところがあるっていうか。石井岳龍の映画とかプロットは超シンプルだしね。もう古典的なぐらいに。

でも宮藤官九郎のパンクは様式が目的になっているから全然その逆なんです。筋がなくてバラバラの断片を集めてガレキの山を作ってる。様式をギッチリ固めることが思想になるんだっていう手段と目的の逆転があると思うんです。
なので筋を一番壊そうとしたのは宮藤官九郎で、石井岳龍とか町田康はもっと引いたところから物語を作ってるなっていう感じがあって…で虫塚さんの(雨宮処凛みたいに私的かつ無責任じゃない)生真面目なテキストというのも宮藤官九郎のお笑い志向とは方向を異にするようで憧れの表出の形としてはわりと同じなんじゃねぇかとかそういうのがあって。

えー、つまりですね、なにが言いたいかというとだね…そう、だから、あぁこれ世間知に長けた大人が作ってるわーってことです。
いや良い意味でだよ。ドラマはおもしろいけど映画は全部つまらなかった宮藤官九郎の映画シナリオが初めておもしろく見えたんですよ『パンク侍、斬られて候』は。
それはたぶん町田康はともかく石井岳龍の存在が映画がパンクしないためのブレーキになっていたからで、理想的なコラボレーションっすよねぇ町田康と石井岳龍の名前だけだったらメジャーでこんなカオスな映画の企画通ってないだろうし、とかそういうことをスクリーンを見ながら90年代悪趣味論争経由で考えてたわけです。

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でも良く言えばって感じもあるなそういうの。なんの話だったでしょう。感想の方向がおかしなことになってきたのでひとまず映画のストーリーを振り返ってみる。

なんでも超人的剣客を自称する浪人がおったと。こいつが綾野剛で、職にありつくためにたまたま見かけた物乞いをわざわざ人の見ているところで斬る。
斬った後にこう言う。あいつは邪教の徒! このままだと邪教の蔓延でこの藩は滅びるぞ! その場に居合わせた馬鹿藩士はまんまと騙されて、邪教対策のスペシャリストとして綾野剛をスカウトする。
以下、主人公が浪人とは名ばかりの詐欺師というぐらいだから虚々実々丁々発止の化かし合いアウトレイジが勃発、どいつもこいつも虚実皮膜のあわいを渡り歩いているうちに重みに耐えきれなくなった皮膜はバチンと破れてしまうのでした。

ここで唐突に先の引用に戻るがあの三つの引用のうちで俺が一番テキストの内容にはあんま賛同できないがテキストの書き手として信頼できたというのが雨宮処凛で、逆にテキストの内容には概ね賛同できるけれどもテキストの書き手として一番信頼できなかったのはロマン優光だったわけです。
なんでってそれ狡いじゃんってなる。それ狡いじゃん。大人の立場から啓蒙的な発言をすることの必要はよくよくわかりますよ。でも物の分かった大人の客観の装いで90年代悪趣味ブームを総括してしまったらさぁ、ねぇ。
雨宮処凛のテキストを読んでいて俺がいいなと思ったのはこの人は基本的にアホなのだと思うが、アホが悪趣味をどう見たかっていう共有はされやすいがアーカイブはされにくい(曲解や誤解も含んだ)私的な記憶だったからですよ。

なぜなら特定の文化や運動についての客観的な記述の中にあるその負の側面なんていうものは、決して負の情報として完璧なものではないから。
映画の中には腹ふり党というカルト集団がでてくる。なにをする人たちか。藩の公式見解は何度も台詞に出てくる。非科学的な教義に踊らされて放火・強姦・破壊。
ところがスクリーンに映し出される腹ふり教徒たちはといえばわけわからん馬鹿な踊りを踊っているばかりで、火はつけるし殺しもするが、それは踊りの熱狂および踊りを公権力に邪魔されたことに対する報復(ただし一部は儀式)で、強姦に至っては暗示的な映像さえないんである。

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パンクなりカルトなりスカムなり、なにかしら社会の周縁に置かれたあぶなそうな対抗文化についてのイメージは公的な見解、社会的な見解、それから多種多様な私的な見解から構成されるとしても、そこには情報格差があるもので、私的な記憶はいずれ客観と歴史の名の下に公的な、社会的な記録として統合されることでしか情報として生き残ることができなかったりする。
そうして垂直方向にイメージの統合された腹ふり党は危険なカルト集団でしかないけれども、果たしてそこから危険の本質が見えてくるだろうか、といえばずる賢い藩士たちが「客観的に」その伝播力を見誤ったことからだいぶ怪しいように思える。

腹ふり党の狂える代表がその心情を吐露(いや本当は吐露というか…)したときにこそ腹ふり党の本当の危険をわれわれは知るのではなかろうか。
と、そのようなわけで雨宮処凛のテキストはたいへん価値のあるものだと思われたし、またそのような私的なテキストから主観性を排除して客観的にアーカイブしてしまうロマン優光のテキストには問題と真正面から向き合おうとしない狡さも感じ、でですよ。

そのロマン優光のテキストと同じような狡さも俺はすこしだけ『パンク侍、斬られて候』にも感じたわけです。だって煽る側だったわけじゃん石井岳龍とか町田康とか。
これはすごく冷徹な映画で、最初の方は客観的でアウトレイジな権力闘争劇をやっていて、それが途中からはカウンターカルチャーについてのイメージを巡る公と私の闘争になって、それから大混乱スペクタクルの中で林立する私的な記憶の方に視点が移行していくっていう構造になってるわけです。

しかしそこまで綺麗に整理しきれるものだろうかこういうのは。有り体に言えば巧い映画なのだとおもう。巧い映画だとは思うが扇動と暴動の映画を反抗を(暴動とまではさすがに言えない)扇動する側だった人間がこうも分析的に撮ってしまう、または語ってしまうことの狡さはどうも。
それもひとつの責任の取り方なんだろうなぁと思いつつ、いやそのへんはむしろ煽り当事者として踏み込んでくれよみたいなそういうのもありつつ、でもこれぐらいカオスな映画をメジャーでやったのはやっぱすげぇよみたいのもありつつで、なんだか咀嚼がたいへんな映画だったというのはこの文章量と紆余曲折っぷりからもうおわかりだと思いますが、そういう感じでした『パンク侍、斬られて候』。

あぁあとなんかすごいたくさん笑えました。笑える映画。「猿はみんなこれぐらい考えてる。でも俺だけが言葉にできた」は町田康じゃなくて町蔵の言葉か。良い台詞。犬じゃなくて猿ですけど。

※勢いで書いたので後からちょいちょい不備を直してます

【ママー!これ買ってー!】


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『爆裂都市』で町田康がやってたキ○ガイ兄弟(弟)みたいなやつが出てくるんですよパンサム。あいつ良い奴だったな。メシめっちゃ食う。

↓原作

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

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