新作公開記念『ハロウィン』シリーズ全作感想

なんでこの季節になったのかはわからないがアメリカン・スラッシャーの最長寿シリーズ『ハロウィン』の最新作が公開されてしまう。『ハロウィン』といえば〈シェイプ〉とか〈ブギーマン〉の愛称を持つ世界三大スラッシャー殺人鬼の一人、マイケル・マイヤーズ。

後輩に当たるジェイソンやフレディが転勤ウェルカム時間外労働当たり前のモーレツ仕事スタイルでサクセスしてきたのに対し、生まれ育った町ハドンフィールドからテコでも動かず殺しもあくまでハロウィン前日(半ドン)とハロウィン当日に限定、40年ものあいだ実家通勤定時退社の仕事スタイルを貫いた元祖スラッシャー殺人鬼である。

そのマイペースな仕事っぷりから一時はジェイフレに完全に人気を追い抜かされ、二人が『フレディVSジェイソン』バブルで騒いでいる頃にはついに死んだかと思われたが、ジェイソンもフレディもパっとしないリメイクを最後にすっかり姿を消してしまった2019年現在、こうしてマイケルだけは何食わぬ顔でスクリーン回帰を果たしているのだから世の中はわからない。

やはり目先の利益や話題性に囚われず堅実かつ誠実に仕事をする人間が最終的には強い。労働改革が叫ばれる昨今、我々がマイケルの働き方から学べるものは決して少なくないだろう。
その意味では働き方改革関連法の施行に合わせたかのような今回の『ハロウィン』新作公開、偶然とはいえ時宜にかなっているのかもしれない…しれなくねぇよ。

というわけで全作観たので感想書きまーす。

『ハロウィン』(1978)

イリノイ州ハドンフィールド、1963年、ハロウィンの日。閑静な郊外住宅地に住む6歳の少年マイケル・マイヤーズは道化の仮装をして姉を刺し殺した。
以来15年間なにも語らずなにも起こさず精神科病院の閉鎖病棟で無為の時を過ごしていたマイケルだったが出廷を前に脱走、その日は奇しくもハロウィン前夜。
そしてハロウィンの日、ハドンフィールド在住の高校生ローリー(ジェイミー・リー・カーティス)は作業ツナギに白いマスクを身につけた不気味な男を町で目撃する。ヤツが帰ってきたのだ。

映画を見たことはなくても大抵の人が一度ぐらいは聴いたことがあると思われる監督ジョン・カーペンター作曲の名テーマ曲とマイケル・マイヤーズの特異なキャラクターが鮮烈なシリーズ記念すべき第一作目にして、アメリカン・スラッシャーのひとつの完成形(ついでにジョン・カーペンターの出世作)

スラッシャー映画の当たり前しか入っていないシンプル・イズ・ベストな91分間に血飛沫とか凝った殺人シーンとか捻りの効いたストーリーとかそんなものを期待してはいけないが、なんの説明もなく始まりなんの説明もなく終わる不合理な殺人劇はやっぱ今観ても新鮮で、説明のなさ故の人が人を殺すことの単純な怖さは『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』等々の後発スラッシャー映画はもちろん、その後のシリーズ作にも見られない無二の魅力。エンディングとか完璧。「ブギーマンなの?」「…あぁ」テテテテテテテンテン…(テーマ曲のつもり)

見所といったらそれはもうマイケルに尽きる。窓の向こうとか画面の奥の方に例の姿でぼや~んとなんとなく立っているマイケル。カメラが一旦首を振ってまた戻ってくるとそこにはもうマイケルの姿がない。これは不気味。幽霊のような撮り方。
殺して動かなくなった人間を眺めて壊れたオモチャを見る子供のように首を傾げたりするマイケルだが、そこに抒情を持たせないカーペンター節が奇妙に寓話的なムードを醸成して、リアルと幻想の混在する独特の殺人鬼像を作り出していた。

以降のシリーズ作ではスラッシャー殺人鬼として色々キャラ付けされていくが一作目のマイケルは設定も含めて色々定まっていない不安定な存在。スラッシャー殺人鬼は一般にマスクを脱ぎたがらないものだがこのマイケルは普通にマスクが脱げてしまったりする。その顔があまりに無個性でありふれたものなので逆に不安をかき立てる、というのは一作目の特権だろう。
どこにでもありそうな郊外住宅地のどこにでもありそうな殺人は一作目の裏テーマといえる。

これでスクリーミング・クイーンの座を獲得、以降『テラートレイン』とか『プロムナイト』とかそんなに面白くないスラッシャー映画に立て続けに出演することになるジェイミー・リー・カーティスはユニセックスな風貌が格好良い。
この頃はまだ冷酷な仕事人の色が濃いルーミス医師のドナルド・プレザンスと二人合わせてなんとなく無機的な空気を漂わせてスタイリッシュ。ちなみに後年ジェイミー・リーが主演したキャスリン・ビグローの初期作『ブルースチール』はどことなく『ハロウィン』の変奏の趣があったりした。

なお『ハロウィン』シリーズは別バージョンがやたら多く制作されており、一作目もその例に漏れずエクステンデッド版(長尺版)というものが存在する。
名前はなんとなく凄そうだがその中身はテレビ放映時に放送枠に合わせるべく劇場公開版ではカットされた説明的シーンを追加、逆に残酷シーンやエロシーンはちょっとだけ削ったもので、一作目の持ち味をわざわざ消したような仕上がりになっている(しかし部分的にリメイク版『ハロウィン』の礎になっていたりするので、シリーズを通して観るなら見逃し厳禁)

『ハロウィンⅡ』(1981)

前作ラストの死闘で負傷したローリーは病院に搬送された。一方、連続殺人事件発生の報はハドンフィールドを駆け巡り、小さな町はプチパニックに。
そんな中でルーミスは忽然と姿を消したマイケルの再捜索に乗り出す。その過程で明らかになる衝撃の事実。ローリーはマイケルの実の妹であった。ということは…ローリーが危ない!

制作年は若干開いたが物語的には前作ラスト直後から始まる直接の続編で、カーペンターは監督から降りてしまったが殺人ペースと残酷描写はパワーアップ、ちょっとしたパニック要素とアクション追加、前作では骨組みだけだったキャラクターたちには色々と属性が付与された。
冷酷な精神科医だったルーミスは偏執的なマイケル・ウォッチャーに、マイケルは失った家族に執着するなんとなく可哀想な人に、そしてローリーは驚愕、実はマイケルの最初の事件後に養子に出されマイヤーズ家の末っ子とは別人として育てられたのだった

そんな無茶なという感じだがルーミスがマイケルだマイケルだと騒いだせいで無関係なハロウィンコスの若者に車が突っ込み爆発炎上、みたいな豪腕続編なのでそんなことは気にしない。
もうマイケルとかすごいですよ、助走をつけるでもなくノーマル速度でガラスのドアに歩いて行ってそのまま突き破ったりしますからね。ターミーネーターじゃないんだから。

その殺しも力任せの手当たり次第が多くなり、殺しの道具も包丁以外にも色々と使うようになったマイケル。
なにか、プロのスラッシャー殺人鬼として独り立ちを果たした一方でアマチュア時代の素朴な魅力を失ったという感じで、地下アイドルが出世してしまった時のファンのような気持ちになる。

まぁスラッシャー映画としては正しいのですが。前年1980年は初代『13日の金曜日』が公開された年なので続編を作るに当たってそれ以外の判断はなかっただろうと察しますが、かなしいものはかなしい。面白いは面白いが。

エンディング曲のザ・コーデッツ『ミスター・サンドマン』はロブ・ゾンビによるリメイク版でもフィーチャーされた『ハロウィン』もう一つのテーマ曲。
サンドマンはドイツの民間伝承にある妖精で、持ち歩いている砂を振りかけて人を眠らせる、というと可愛らしい気もするがホフマンの幻想小説『砂男』ではサンドマンが目玉を取りに来るぞ…とか書かれたりしてホラーの影あり。

フロイトが小論『不気味なもの』でこれを分析したことからサンドマンの語には不安のニュアンスが加わり、このへんが『ハロウィンⅡ』のエンディング曲に採用された理由だろうと思われる。

『ハロウィンⅢ』(1982)

…たのしいハロウィン、ハロウィン、ハロウィン、たのしいハロウィン、シルバー・シャムロック!
今日もテレビからあの歌が聞こえてくる。売り出し中のオモチャメーカー、シルバー・シャムロックがハロウィンに向けた自社製品の一大キャンペーンを展開しているのだ。

そんな折、医師のチャベスはハロウィンのマスクを手に搬送されてきた奇妙な男と遭遇する。なにかに怯える男は病院のテレビに流れる例のCMを目にして「殺される…殺される…」と半錯乱状態。
一時は鎮静剤の投与で落ち着いたが夜半の緊急連絡を受けてチャベスが病院に舞い戻ると、彼の前で男は焼身(爆発)自殺を遂げてしまう。
一体彼の身になにが。男の身辺を探るうちにチャベスは恐ろしい陰謀を知ることになるのだったが…。

前作前々作とはまったく無関係のシリーズ番外編で、マイケル・マイヤーズは登場しない。
そのため興行的には失敗してしまったらしいがこれはこれで単体として観れば結構面白く、製作と音楽で参加したカーペンターのミニマルなシンセサウンド(『ハロウィンⅡ』~『ハロウィン6』までを手掛けたアラン・ハワースと共作)や一度聴いたら忘れられない洗脳CMソングが曰く言い難い恐怖を演出、ユーモアとグロテスクの同居する殺人描写はなかなかに独創的でインパクト大。ブラウン管テレビの走査線に映し出される粗い図像も怖かった。

ラブクラフト系列の探偵ホラーなシナリオもかなりツイストが効いていて、ハロウィンの悪夢を描いたダークお伽噺としてはむしろシリーズで一番よくできているんじゃないかとすら思ってしまう。
ちなみにこれも残酷描写が追加された別バージョンがあるらしいが、観てないので不詳。

『ハロウィン4 ブギーマン復活』(1988)

1作目の惨劇から10年、それだけ経てば色々あるのでいつの間にかローリーは死んでまだ幼い娘のジェイミーが一人残された。
孤独なジェイミーが悪夢に見るのは無貌のマスクを被った例のヤツ。そしてハロウィン前日、意識不明のまま収監されていたマイケル・マイヤーズはついに目覚めるのだった…。

前作の興行的失敗で息の根が絶たれたかと思われたシリーズだったがマイケルよろしくしぶとく復活。
これが堂々たる復活っぷりで、1作目を踏襲した濃厚な寓話的幻想恐怖のムードに10年という時間の経過を巧く組み込んだシナリオがプラス、殺人鬼と人死にで観客の気を引くインスタントなスラッシャー映画とは一線を画す厚みのある続編になっていた(そのシナリオは脚本家組合のストライキの都合によりわずか11日で書かれたというから驚き)

イメージ映像的な荒涼とした廃農場のタイトルバック、そこはかとなくユーモアを漂わせる道化風マスクのマイケル、マイケル再訪に怯えたハドンフィールド親父自警団が暴走していくパニック映画的要素に夢と現実のあわいを彷徨う映像美と、見所多し。

マイケル脱走の報を聞きつけたルーミスがハドンフィールドに向かう道中で出会うアル中牧師などなど脇キャラもしっかり味がある。
このシーンが良いんですよね。ほんのちょっとした言葉と視線のやりとりで互いを悪魔の概念に憑かれて人生を棒に振った同志と認める、その時のルーミスの哀しげな笑顔。
『ハロウィン』がマイケル・マイヤーズの物語であると同時にルーミスの物語でもあることを端的に物語るシリーズ屈指の名シーンだ。

マイケルの存在が都市伝説化している設定はマイケル・マイヤーズというキャラクターの本質を捉えた巧みなもので(ちなみにジェイミー役ダニエル・ハリスはその後都市伝説ホラー『ルール』に出演する)、後のシリーズの方向性を決定づけると同時に量産体制を用意したが、おぞましいが必然にも感じられる衝撃的なラストシーンを踏まえれば、個人的にはこれがシリーズ完結編でも良かったと思ってる。

『ハロウィン5 ブギーマン逆襲』(1989)

前作のラストで息の根が止められたかと思いきや(やっぱり)生きていたマイケル。州警察に蜂の巣にされ落ちた先の廃坑道が偶然にも川に繋がっていたためのそのそと這い出して川流れ、どんぶらこどんぶらこと川を下って川岸の小屋で暮らすおじいさんに拾われました。桃太郎か。

困ったおじいさんはとりあえず昏睡状態のマイケルを小屋に1年間放置、なんだかイイ話になりそうな雰囲気も微妙にあったが再びハロウィンの日がやってきて目を覚ましたマイケルはお世話になったおじいさんを一撃でぶっ殺すと性懲りもなくハドンフィールドの町に舞い戻るのであった。

色々と要素を盛り込んだ前作に比べればこちらは随分と素直なスラッシャー映画になっていて、映画のトーンに合わせてかキャラクターも直情的。
マイケルは怒ってピックアップトラックで獲物を追い回すしルーミスはなりふり構わず壁から引っこ抜いた木材をぶん回す、ジェイミーは全編襲われっぱなし逃げっぱなしの常時半泣きor悲鳴で見ていて可哀想になってしまう。

微妙な超自然的要素も一応あるとはいえ、もう何度も見た町で何度も見たような殺人を繰り返されてもぶっちゃけそんなに面白くはないが、その剥き出しの感情がマイケル、ルーミス、ジェイミーの疑似家族ドラマとして収束していく後半の展開はほんのちょっとだけホロリ系でなかなかに見せる。

ジェイミーとコミュニケーションを取るために怒りに染まったような悲しみに暮れたようなデザインの今回のマスクを自ら脱ぐマイケルの姿なんかおよそブギーマンらしくないが、過去の過ち×3回からブギーマン以外の生き方ができなくなってしまった殺人オッサンが姪との暴力交流を通して心の奥底に微かに残る人間性を回復しようとしたのだと思えば、なかなか沁みる。

ウン十年とその影を追ううちにルーミスにとってのマイケルは仇敵でありつつ反面で息子のような存在になっていた、というあたりも沁みポイント。
黙して語らぬマイケルに静かに歩み寄り、慈しむように「一緒に家に帰ろう…」と語りかけるルーミスはさすが名優ドナルド・プレザンス、愛憎相半ばする複雑な感情が画面を包み込んで実に切ないのだった(でもその後ボッコボコにするのですが)

『ハロウィン6 最後の戦い』(1995)

前作のラストでまたもや失踪を遂げたマイケルは邪教集団に匿われていた。邪教集団の目論見は『ハロウィンⅡ』でちょっとだけルーミスが語っていたサムヘインの儀式の成就。こいつには血縁者の生け贄が必要だっていうんでマイケルと一緒に拉致監禁してきたジェイミーを強制妊娠&出産、その赤子をマイケルにぶっ殺させようとしているらしい。

だがすんでのところで生んだばかりの赤子を持ってジェイミー逃走。追うマイケルだったがジェイミーは殺ったものの赤子は取り逃がしてしまう。
さてその赤子をたまたま拾ったのが『ハロウィン』でマイケルに恐い目に遭わされて以来、トラウマからマイケルマニアになってしまったハドンフィールド在住のトミー少年。
なぜかマイケルの生家に引っ越してきてしまったローリーを養子に取った家族(縁起でもない!)なんかを巻き込んで、再びハドンフィールドを影が覆う。

頑張ってシンプルなあらすじにまとめてみたが全編通して見るとなんの話だからよくわからないシリーズ最大の問題作。
とにかく登場人物と要素が無駄に多い。トミー少年(演じるはポール・ラッド!)のトラウマ、前作から引き続き登場の全身黒ずくめの謎の男、その影に怯えるローリーの養子縁組一家の子供、ルーミスとマイケルの因縁に絡んでくるルーミスの同僚、そして邪教集団etc…たぶん悪の継承をテーマにしたシナリオなんだと思うが、邪教なら邪教で一本にまとめればよかったのに。

ただでさえ全体像がわかりにくい物語の上にシナリオの大幅変更を編集により敢行、余計なにがなんだかわからなくなってしまった。
察するにその理由は撮影後にドナルド・プレザンスが亡くなってしまったからで、ルーミスと黒ずくめの謎の男を軸にした新たな物語が立ち上がるシナリオ上のエンディングをその続行が不可能になった以上、変えざるを得なかったんだろう。
エンディングを変えたら帳尻合わせで全体の再編集も不可欠に。結果、カオス。

オリジナルエンディングを含めた元シナリオに忠実(と思われる)な別バージョンはプロデューサーズ・カット版として流通している。
劇場公開版との主な違いはやはりエンディングというかラスト30分ぐらいの展開で、劇場公開版は邪教集団絡みのシーンの多くをカットして(たぶんプレザンスの死後に追撮もしてるんじゃないだろうか)アクションと残酷描写を追加、赤子を巡るトミー少年とマイケルの対決に絞ったオーソドックスなものだが、プロデューサーズ・カット版ではトミー少年とマイケルの対決が削られて代わりに邪教集団の儀式と呪いの成就が描かれる。

こちらのエンディングでは邪教集団が単なるカルトではなく実際にオカルトパワーを持っているわけで、そのオカルト路線を明確化するためかプロデューサーズ・カット版は全体的にマイケルの殺人描写が淡泊で存在感も希薄。
意図してかせずかはわからないが『ハロウィンⅢ』に部分的に回帰しているように見えるのは大変興味深いところだが、まあそれが面白いかと言われると話は別。

とくにラスト周りに相当なぎこちなさを残しつつもオカルト要素を可能な限りカット、ハードロック調の音楽に『スキャナーズ』ばりの頭部破裂などなどパワフルなゴア描写を乗せて勢いで押し切る劇場公開版の方が俗っぽい見せ場が多くて個人的には好きだった。
元気のいいマイケルも存分に見れますしね。邪教暮らしで英気を養ったのか今回のマイケルはリメイクを除けばたぶんシリーズで一番元気。父性を表現したと思しきマスクは光の加減で微笑んでいるように見え、余裕である。

ちなみにプロデューサーズ・カット版では一部のキャラクターの設定が大幅に変更されているが、完璧にネタバレになるので書かない。

『ハロウィン H20』(1998)

456が無かったことにされてしまった衝撃。元祖スクリーミング・クイーン、ジェイミー・リー・カーティスのシリーズ復帰作にして『ハロウィン』20周年記念作は『ハロウィンⅡ』の直接の続編で、従ってジェイミー・リー演じるローリーが『ハロウィンⅡ』後に死亡した設定の『ハロウィン4』の世界線は破棄された。

出来不出来はあっても456はいずれもシリーズの可能性を感じさせる力作だったので残念なことこの上ない設定変更だが、それに輪を掛けて残念なのは456を消してジェイミー・リーを呼び戻してまで制作されたこの『ハロウィン H20』、個人的にはシリーズワーストなくらい面白くないことだった…。

『ハロウィンⅡ』の惨劇後、ローリーはマイケルの魔の手から逃れるべくルーミスの助けで事故死を偽装し別人として新たな人生を送ることになった。あれから20年、現在はイケメンの一人息子(ジョシュ・ハートネット)に恵まれて平凡な高校教員としてそれなりに幸せな日々を送っている。
だがそんな日々に不穏な〈影〉が。生前のルーミスの助手を務めていた看護師の家に空き巣が入り、ローリーに関する情報が何者かに盗まれてしまったのだ。
何者か、とはもちろんヤツ。かくしてマイケル・マイヤーズとローリーの20年越しの対決が始まった。

監督は『13日の金曜日』シリーズ初期を支えたスティーヴ・マイナーで、そのためかマイケルの挙動はより荒っぽく殺害シーンは残虐度アップ。ようするにちょっとジェイソン化している。
対するローリーの方も斧一本でマイケルに立ち向かっていくタフガイっぷりなので、まぁ宿命の対決ということで盛り上げようとしているのはわかるが、それにしてもシェイプとしての怖さをこんなに感じないマイケル、こんなに不気味さのない『ハロウィン』というのも他にないだろう。

ストーリーの方も『ミミック』や『サラマンダー』を手掛けた脚本家マット・グリーンバーグの手が入っているとは思えないほどケレン味に乏しい粗雑なもの。『4』の世界線ではローリーの姪だったジェイミーの存在を消して新たな息子を出したのだからせめて親子の物語として作り込んでくれたらいいが、この息子も途中からすっかり出てこなくなってしまうのでなんのために出てきたのだかわからない。

今回のマイケルマスクはどこかティーンエイジャー男子を思わせる未熟な相貌だったから、(マイケルに襲われた過去により)過干渉な母親に反発する息子のシャドウとしてのマイケル、みたいなサイコロジカルな捻りがあっても良かったように思うのですが…。

とはいえ、ローリーとマイケルの直接対決にはそれなりに胸が躍ってしまうのもまた事実。ジェイミー・リーの実の母親にして『サイコ』の叫びで映画史に刻まれたジャネット・リーの特別出演はホラーファンへのプレゼント、恒例のテーマ曲の大胆なオーケストラ・アレンジが高らかに鳴り響くラストには否応なしにテンションが上がってしまったから嬉しいやら悲しいやら。

製作総指揮が『スクリーム』『ラストサマー』の脚本を書いたスラッシャーマニア、ケヴィン・ウィリアムソンなのでそのへんファンのツボを押さえた作りになっているのかもしれないが、でもファンアイテムの『ハロウィン』なんて…と複雑な気分にさせられるのだった。

ちなみに最初に殺されるホッケーマスクの若造は若き日のジョセフ・ゴードン=レヴィット、というトリビアがある。

『ハロウィン レザレクション』(2002)

今やマイケル・マイヤーズといえばテッド・バンディやジョン・ウェイン・ゲイシーに比肩するアメリカ人なら誰もが知るレジェンド級シリアルキラー。ジェイソンやフレディのように飛び道具的演出に頼ることなく肉切り包丁を振り回し続けて二十余年、思えば遠くへ来たもんだ。

さてハロウィンの夜、すっかり廃墟と化したそのレジェンド級シリアルキラーの生家に潜入する大学生が数人。こいつらはリアリティ・ショーの素人出演者で、身につけた小型カメラの映像はリアルタイムで配信されている。
一番視聴率を稼いだやつにはご褒美が…ディレクターの甘言に乗せられた学生たちは恐怖のお宅訪問を開始。もちろん、その家にはディレクター指示で恐怖心を煽る数々のヤラセ小道具と偽マイケルが仕込まれているのであった。そして本物のマイケルも。

『ハロウィンⅡ』のリック・ローゼンタールが再びメガホンを取った新生ハロウィン2作目は都市伝説的シリアルキラーとしてのマイケル・マイヤーズにスポットを当てた異色作で、冒頭こそ前作『H20』との繋がりを明確にするため(そして客寄せのため)精神科病院の閉鎖病棟に入院しているローリーの下をマイケルが訪れる場面だが、後はほぼほぼこれまでのシリーズとは無関係の独立した物語になっている。

マイケル家に残された数々の虐待の痕跡。そこからマイケルが殺人鬼に化けた理由を導き出してわいわい盛り上がる学生たちと視聴者だったが、実はこれはディレクターの仕込み。
まぁ人ん家でそんなこと勝手にされたら殺人鬼じゃなくても怒るよねってことでマイケルはこいつらをサクサクぶっ殺して、事情を知らない視聴者たちは「どうせヤラセっしょ~特殊効果すげ~」とか言いながらその光景を笑って消費するのですが、このふざけたメタホラー的な展開がマイケルの虚構性を強調して、続編というよりはパロディに近いにも関わらず逆説的に1作目に近い雰囲気に作品を連れ戻しているのは面白いところだった。

ちなみに最初の方の大学の心理学講義のシーンで教鞭を執っているのは監督リック・ローゼンタール本人だそうです。

『ハロウィン』(2007)

『ハロウィン』(1978)を『デビルズ・リジェクト』のロブ・ゾンビがリメイク。作家性の強いマニア系ホラー監督が一体どう『ハロウィン』を語り直すのか期待半分不安半分だったが、いざ観てみるとその内容は驚くほど驚きのない正調リメイク。

なにせ劇中で子供たちが観ているテレビ映画までオリジナルと同じ『遊星よりの物体X』なのだから徹底している。
ミュージシャンが本業のロブゾンのこと、例のテーマ曲もさぞ大胆なアレンジを加えているんだろうと思いきやそんなこともない。どころか、音楽を入れるタイミングまでオリジナルを踏襲しているのだった。

ストーリーの面ではオリジナルの90分に対し109分のランタイム相応に肉付けされていて、とくにオリジナルでは最初の殺人以外は一切描かれることのなかったマイケルの過去が大幅増強、暴力親父の支配する貧困家庭で虐待を受けつつ学校ではイジメ野郎の標的にされているマイケルの悲惨な少年時代が容赦なく描かれる。

マイケル・マイヤーズを正体不明のブギーマンとしていたオリジナルシナリオのこの改変は賛否が分かれるところかもしれないが、以降シリーズを重ねる毎に設定が増え都市伝説的に尾ヒレが付いていったマイケル像を整理して具体化したものと思えばそれほどの違和感はない。

事件後に精神科病院に収容された少年マイケルの様子はオリジナルのエクステンデッド版でも少しだけ触れられていたし、被虐待児童の設定なんかは直前の『ハロウィン レザレクション』を直接というわけではないにしても、多少は引きずっている感じである。

前半1時間はマイケルが最初の殺人を犯すまで、そしてその過酷な現実を受け入れられずに精神が荒廃、ブギーマンとして生まれ変わるまでの過程に費やされる。
最近のホラー映画としては(もう12年も前ですが…)随分スローなペース配分だが、ロブゾンなりのオリジナルへの敬意とマイケル・マイヤーズをジェイソン的なキャンプな殺人鬼にはしないという意志の現れだろう。

正直なところその後のスラッシャー展開は半分くらいオリジナルと同じなので、その内面を表すかのようなボロボロのマスクと汚れた作業ツナギ(前に撮影に使用されたツナギを銀座のヴァニラ画廊で見たが威圧感がすごかった)を身につけた巨魁の男にアップデートされたマイケルの見た目が単純に恐いという以外は大して面白くなかったのだが、オリジナルをベースに『ハロウィン』シリーズを丁寧に再構築した誠実なリメイクにはなっていたように思う。

ビル・モーズリイ、ウド・キア、ダニー・トレホ、ケン・フォーリー等々の出演はジャンル映画好きな人には嬉しいサービス。ジェイミー役のダニエル・ハリスもローリーの友人アニーとしてシリーズ復帰。ルーミス先生はマルコム・マクダウェルです。わぁお。

『ハロウィンⅡ』(2009)

前作の惨劇から一年、生き延びたローリーはトラウマに苦しみ未だ以前の生活には戻れないでいた。搬送中に失踪したマイケル・マイヤーズは公式には死亡したとされているが死体は発見されていない。ハロウィンが近づくにつれローリーの神経はすり減っていく。きっと来る。ヤツがまた来る…。

一方その頃、マイケルの担当医として一躍時の人となったルーミスはマイケル事件を描いたノンフィクションのハロウィン発売に向けてプロモーション活動の真っ最中。
事件を売名と金儲けに利用していると非難され、事件の責任を問う声も上がったが、ルーミスは悪びれるそぶりも見せずにプロモーションツアーの最終目的地、ハドンフィールドへと向かうのだった。そしてまたマイケルも…。

職人的な作りだった前作から一転、続編はロブ・ゾンビの作家性が爆発。『2』以降のシリーズ作の核心だった「家族を求めるマイケル」を前面に押し出しながらも同時にシリーズの世界観を根底からひっくり返し、スラッシャー映画の自己批判を込めた強烈な社会風刺を織り交ぜる極めて野心的なその作品作りには驚きしかない。

とにかく異例ずくめ。まずマイケルの心象風景が明確に描写される点。シェイプでもブギーマンでもシリアルキラーでもない一人の人間としてのマイケルを描いた前作から更に踏み込んで、この続編ではマイケルの内面を可視化してしまった。
前作にはまだ微かに残っていた不死身のスラッシャー殺人鬼キャラはマスクもろとも剥ぎ取られ、ここでのマイケルは亡き母親(シェリ・ムーン・ゾンビ)の幻影に縋って殺人を続けるちょっと身体の頑丈な人でしかない。

人目に付かない荒野の廃小屋に住み着いて一人孤独に家族の復活と楽しいハロウィンを夢見るマイケルの姿は、おそらくメアリー・シェリーの原作版『フランケンシュタイン』での家族に羨望の眼差しを向ける怪物が元型になっているんだろう。
『ハロウィン5』の冒頭に置かれた小屋暮らしの老人に拾われるマイケルから『フランケンシュタインの花嫁』的なイメージを読み取った上で、更にそのイメージを解体・原点に遡って再構築しているのだとしたら『ハロウィン』愛がすごいが、それはともかく望まずして造られた怪物の姿は憐れを誘うばかり。

『フランケンシュタイン』の怪物を造り上げたのは無責任な医学生の狂気じみた情熱だったが、『ハロウィンⅡ』でマイケル・マイヤーズを作り上げたのはルーミスだ。このルーミスの衝撃的なキャラ変っぷり!
マイケルが人であるならばルーミスもまた人であったというわけで、旧シリーズではヒーローの役割を背負っていたルーミスは単なる拝金主義の俗物に成り下がってしまった。そのことを観客に告げるために襟を立てたベージュのトレンチコートに身を包んだお馴染みの姿の宣材写真をルーミス自身に否定させるシーンまである。

この改変は単なる表面的なサプライズを狙ったものじゃないだろう。メディアのオモチャにされるマイケルは『ハロウィン6』や『レザレクション』でもネタ的に盛り込まれていたが、今作でそれが意味するものは金と引き換えにシリアルキラーの偶像を生み出し、被害者を蔑ろにして恐怖と表裏一体の崇拝を拡散するアメリカ型メディアの罪の告発である。

徹底した現実主義者であるルーミスは人々が好奇心から消費する殺人鬼マイケル・マイヤーズがメディアの作り出した〈シェイプ〉でしかないと知っている。
だから彼はその光景を冷ややかに眺めつつマイケルを恐れることなく金儲けに利用できるのだが、その行為はローリーら事件被害者のメンタルをズタズタに切り刻み、記憶の中のシェイプを現実に蘇らせてしまうのだった。

スラッシャー映画好きとしては誠に耳が痛い話。アイドル化された殺人鬼が人をザクザク殺していく映画をたのしく消費する時に、我々は確実にロブゾンが批判するものの一翼を担っているわけだから。

おそらくそうした意図もあってマイケルの殺人シーンは物理的にも心理的にもシリーズの中で最も激しく最も重いものとなった。
その傾向が如実に表れているのはオリジナルの『ハロウィンⅡ』をトリッキーな手法(これがまた巧い)で再現した冒頭の病院シーンで、物語上必要なショットではないにも関わらず前作でマイケルに半殺しにされ病院に搬送されたローリーの友人アニーの手術の様子が克明に画面に映し出される。

人を安易に刺したり殴ったりすることはその本人が考えているよりも遙かに重い傷を相手に残す絶対にやってはいけない行為なのである、と言外に言っているわけで、スラッシャー映画でそんなことを言われても…という気もするが、スラッシャー映画の代表格でそれをやることに意味があるんだろう。
嘘みたいですが観終った後はやっぱり暴力とかはよくないから人にやさしく平和に生きようって思いました。いやほんとほんと。

闇や濃霧で満たされた空間の画面中央奥に光源を置いてパノラマ的ロングショットで切り取ったりする劇的な構図は宗教画を思わせてロブゾン美学全開、ゴスメタル的心象風景はチープな攻撃性と反面のかなしさに満ち満ちて、マイケルは怒りに満ちた唸り声を上げながら破れたマスクで殺人に手を染める。テーマ曲が流れるのはなんと今回エンディングのみ。

ここまで来るとリメイクというよりほぼほぼオリジナル作と言えるが、被害者の痛みやトラウマに感情的な焦点を当てたシナリオは『ハロウィン4』に多く負っているように見える(ルーミスがマイケル本を出版してハドンフィールドの人間に疎まれている設定も『4』にある)。
そこでは仄めかしに留まっていた警句的メッセージをメディア批判やスラッシャー映画批判などと絡めて主題に昇華したラストは、シリーズの掉尾を飾るに相応しいものだったように思う。悪魔はシリアルキラーや都市伝説の中にではなく、自己の影に棲んでいるのだ。

…でもまた新作が作られたわけですが。

2019/4/12 少し書き直しました。

【ママー!これ買ってー!】


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やっぱ『4』ですよ。『4』の成功がなかったら今のシリーズとロブゾン版のリメイクは無かったに違いない。すごいよね、4作目にして傑作ってなかなか無いですよシリーズもので。

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